四月初頭、春休み。
祐無は、人生最大級の後悔をしていた。
(まずい……)
そう、まずいのだ。
彼女は終了式の日に、潤の家に泊まり込みで遊びに行く約束を交わしていた。
あまり話を聞かず、適当な受け答えをしてしまったのがそもそもの原因だ。
彼女の中では近いうちにこの街を去ることが確定事項だったので、未来の約束などどうでもよかった。
ただ、その日一日、自分に残された最後の日を楽しむことしか頭になかった。
なのに、何故か今、自分はここにいる。
今もまだ、この街に残っている。
それは、とても嬉しいこと。
心の底から、喜ぶべきこと。
それなのに彼女は、それができないでいた。
(この約束はどーすればいいのよっ!!)
今日は、潤の家に泊まりに行く日。
男の家に、一泊する日。
『もしもし……』
「あ、北川か? 相沢だ。悪いんだけど、今日の予定キャンセルできないか?」
祐無が最初に取った行動は、潤に電話をかけることだった。
なんとかしてこの話をなかったことにしないと、自分の身が危ない。
『はぁ? 冗談はやめてくれよ、今日のためにいくら使ったと思ってるんだ』
「え……いったい何を買ったんだ?」
『……あのなぁ、酒に決まってるだろ? 泊まりなんだから』
(そんなの飲まされたら余計まずいじゃないですか)
目が覚めたら裸だった、なんていう未来はごめんである。
『とにかく来い。両親が不在の日なんて今日しかないんだし、キャンセルは許さないからな』
「え? あ、ちょっと待て、それってつまり――――」
プツッ……
切られた。
まずい。やばい。どうしようもない。
(潤の家に一泊? お酒あり? 両親不在?)
不安要素が三拍子揃っている。
直哉も泊まりに来るから3人だというのが唯一の救いだが、多人数での行為を好む者もいると聞く。
それにそんなもの、お酒が入ってしまえばどうでもよくなる可能性が高い。
加えて、祐無はお酒を飲んだことがない。
酔った自分がどんな行動をとるか、まったく予測ができないのである。
(もし、暑いとか言って服を脱いじゃったりしたら――――)
――――この世の終わりだ。
酔っ払った友人2人が、獣と化すことは容易に想像できる。
「お、お酒だけは絶対に飲めない……」
祐無は受話器を持ったまま、その場に崩れ落ちた。
思えばこの3ヶ月、常に危険が付きまとう日々を送ってきた。
そのおかげでと言うべきか、度胸もついたし、覚悟を決めることにも慣れてしまったようだ。
つまるところ、祐無は夕暮れ時の少し前に、北側家にやってきているのだった。
「話半分に聞き流してたから知らないんだが、寝る場所や風呂はどうするんだ?」
潤の家はマンションではなく、二階建てのごく普通の一軒家だった。
祐無は家の中を案内されて階段を登りながら、前を歩く潤に聞く。
「寝る場所は布団を2枚敷いとくから、寝たくなったら適当にそこに倒れこむ。
風呂はなし。どうしても入りたいって言うんなら銭湯にでも行こう。ついでに言うと、メシもなしだ」
(え、3人なのに布団は2枚!? しかもごはんがないってことは、お酒とおつまみだけ!?)
お風呂に入らないというのは、まだ祐無の予想範囲内だった。
彼女も女の子なので体臭は気になるが、水瀬家を出る直前にシャワーを浴びてある。
一緒に入るんだと言われてもいいように、断る理由を作っておかなければいけなかったからだ。
3人なのに布団が2枚というのは、よく考えれば妥当なのかもしれない。
全員が酔いつぶれるまで飲むつもりみたいだから、いざその時になってみても、そんなことを気にする余裕はなさそうだ。
ただ、理屈ではそう理解していたとしても、感情を制御するのは難しかった。
(北川や斉藤と同じ布団なんて……。うぅ、嫌すぎる……)
やがて2人は廊下の突き当たりに辿り着き、潤がそこにあったドアを開けた。
「ここが俺の部屋だ。飲むのも寝るのもここになる」
「ふ〜ん……ちゃんと片付いてるんだな。って、斉藤はもう居たのか」
「おう、相沢。遅かったな」
潤の部屋の中央で、直哉が机を前にして座っていた。
その机の下にはところ狭しと酒瓶が詰め込まれ、上には七味あられなどのつまみとコップ、封の空いた酒瓶などが載っている。
「うわ、お前もう飲んでるのか」
「ああ。せっかくAVまで用意してきたんだ、一緒に見るのに素面ってわけにはいかねぇだろ」
直哉が部屋の隅を指差したのでそちらを見やると、なるほど、それなりに大きいテレビが鎮座している。
(うわ、最悪……)
男同士の夜は、女の子に優しくなさそうだった。
「なにぃ? お前そんな物持ってきてたのか。どんなのだよ?」
「ま、それはその時になってからのお楽しみってことで」
潤が興味津々といった調子で聞くが、直哉はいやらしい笑みを浮かべるだけだった。
祐無はなるべくそれを見ないようにしながら、潤と同じタイミングで床に座った。
初めてのお酒に対する緊張からか、脚は正座になっている。
「妙にかしこまった座り方をするんだな」
「あ、いや……オレ、実はお酒って初めてなんだよ」
「へ〜ぇ。今どき珍しいな」
「そうか……?」
「よし、そんな相沢にはコレだ。飲んでみろ」
祐無が潤と2人で話していたところに、直哉が割り込むようにしてデン、と机の上に酒瓶を持ち上げた。
どうやらたった今自分の鞄から取り出したものらしい。
ラベルに書いてある英文字を見ても、読むことはでるがそれがどんなお酒なのかわからなかった。
「へぇ〜、初心者用のお酒なんてものまであるのか。アルコール度数いくつだ?」
「96」
その直後、潤の裏拳が直哉の顔面を捉えていた。
どうやら手加減はされていなかったらしく、それを受けた直哉はうめき声も上げられずにその場に崩れる。
「安物だけどたしかワインもあったよな。相沢はこれにしとけ、度数低いから」
「あ、ありがとう……」
祐無としては例え何であろうとお酒は飲みたくなかったが、潤はすでに選んだワインを開けていた。
注いだコップが2つということは、たぶん、一緒に飲もうということなのだろう。
「ほら、まずは一口」
「お、おう……」
祐無は渋々、そのコップを手に取った。
グラスではなくコップというのが、いかにも高校生らしい。
そんなどうでもいいことを考えて気を紛らわしながら、ゆっくりと口を付ける。
舐めるのとほとんど変わらないくらいの量を口に入れてから、数瞬。
「あ、美味しい」
「だろ?」
素直な感想が、口を突いて出た。
潤はその言葉に満足したのか、笑顔を見せている。
その横で、直哉が鼻頭を手で押さえながら、ゆっくりと起き上がった。
「あ〜、北川。俺にもそれ頼む」
「はいはい。2人とも、次からは自分で注ぐんだぞ」
「わかってる」
「へいへい」
まだ空が茜色の時分から、その飲み会は始まった。
2時間ほど経過した頃、祐無はあることに気がついた。
いつのまにか、机の上には酒類しか見当たらなくなっている。
「なんか、ごはん抜きにしてはつまみが少なくない?」
すでに余裕がなくなってきているのか、口調が素に戻りかけていた。
しかし祐無自身、その自覚はない。
「馬鹿だなぁ、食ってたら腹に酒が入らなくなるじゃねぇか」
「馬鹿はどっちだ、いったいどれだけ飲むつもりなんだよお前は」
潤が、自分のコップにビールを注ぎ足しながら直哉に言う。
しかしそれは呆れているような感じにであって、少しも責めているような様子はない。
(これだから男は……。祐一だって、けっこういい加減な性格だし……)
祐無は一番身近だった男性と目の前の2人とを照らし合わせて、やっぱりみんな同じか、と心の中で嘆息した。
そしてそんな不甲斐ない2人に、彼女はなんだか、無性に世話を焼きたくなってきた。
「本当に何も用意してないの? なんだったら、冷蔵庫の中を見せてくれれれば、何か適当に作れると思うけど」
それが自分が女性だから出た言葉なのか、単に料理ができるから漏れ出た言葉なのかはわからない。
本当にただ、なんとなく、そう思っただけだった。
「へぇ〜、相沢って料理できたのか、初耳だな」
「そうだな、ちょっと驚きだ」
直哉は皿に残された最後の柿の種を頬張りながら、潤はビールを飲みながら、それぞれの感想を口にした。
口に含んでいたビールを飲み下してから、潤が続ける。
「でも冷蔵庫の中身を使われるのはまずい。俺は自分で料理できないから、親に女を連れ込んだと思われる」
「べつにいーじゃねぇか、実際作るのは相沢なんだし、本当のこと言えば。それに、俺もちょっと食ってみたいしな」
家庭内での体裁を気にしている潤に、直哉が説得するように話しかける。
潤はそれに反論しようと口を開きかけて……ほんの一瞬、祐無と目が合った。
「……わかったよ、それじゃ相沢、頼む」
「よしっ。台所の位置は発見してあるし、勝手に使わせてもらうからね〜」
潤の了承を得た祐無は待ってましたとばかりに立ち上がると、さっそく潤の部屋から出ることにした。
他の2人はそれを、手を振って見送っている。
「おう、待ってるからな〜」
「食えないモンを作ってくるんじゃあないぞ〜!」
そんな2人がわがままを言う子供みたいに思えて、祐無は密かに、その表情を緩めていた。
そして、そのさらに2時間後。
そろそろ、お酒と談笑だけでは時間が潰せなくなってきていた。
祐無が作った手料理も、「酔った舌では味が分からん」という酷い扱いを受けたにもかかわらず、綺麗に間食されていた。
では、どうするのか?
メインイベントの始まりである。
「ぃよーし! そろそろコイツを見てみようかぁーっ!!」
「ヨッ! 待ってましたぁ!!」
「ふえぇ? あ、そういえば斉藤、何か持ってきてたっけぇ?」
お酒が入って、直哉と潤はテンションが上がりっぱなしになって、祐無は完全に素に戻っている。
ただ、全員が酔っ払っていることが幸いして、誰も祐無の変化に違和感を感じていなかった。
「おう! 相沢のために苦労して探してきてやったんだから、しっかり楽しんでくれよな!」
「へぇ〜。どんなビデオなの?」
「男の役がユウヤって名前のAVだ」
「……?」
ビデオをデッキに挿入しつつ答える直哉を後ろから眺めながら、祐無は疑問符を浮かべていた。
隣の潤に目線で問い合わせてみても、彼にもわからないらしく、肩をすくめられた。
「……で、それのどこが『相沢のために』なんだ?」
しかしわからない代わりに、祐無の代わりに質問してくれていた。
酔っ払っていても細かな気配りのできる、いい奴である。
「姉弟の近親相姦モノなんだけどな、姉の方がユウちゃんユウちゃん叫んで乱れまくるらしグボァッ!!!」
祐無の決して非力でない細腕が、直哉の顔面を正確に捉えていた。
「そんなの見れるかぁっ!!!」
フローリングの床でダウンしている直哉に一声叫んでから、祐無はリモコンを操作して停止ボタンを押した。
もう、先程までの酔いは完全に覚めてしまっている。
「クッ! 人様の好意を拳で返すとは、なかなか熱いヤツじゃないか相沢め……」
「なんで殴られて盛り上がってるんだよお前は……」
血が流れているわけでもない口元を拭いながら起き上がる直哉に冷静な突っ込みが入るが、彼はそれを無視していた。
そして何事もなかったかのように自分の鞄からビデオをもう一本取り出し、
「仕方ない、じゃぁコッチで我慢するか」
と不平をもらしながら、ビデオデッキの中身を入れ替えた。
「……ちなみにそっちは何なんだ?」
祐無が直哉に冷たい声で問いかけた。
酔いが覚めてしまった今となっては、彼女はなんとしてもこのAV観賞を止めなければいけない。
「これか? これはな、家庭教師モノで男の名前がジュンイチという……」
「今度は俺かよ!?」
「もうヤだ……なんでこいつこんなに馬鹿なの……?」
酔った直哉のあまりの能天気さ加減に、祐無は怒りや呆れを通り越して悲しくなってきた。
さすがにまだ、少し酒気が残っているためかもしれない。
彼女は机に顔を伏せると、声を上げずに涙を流し始めた。
「ダッハッハッハ!! 見ろよ北川、相沢のヤツ泣き上戸だ!」
「そう言うお前は笑い上戸に見える」
そんな祐無の姿を直哉が笑い飛ばし、辛うじて正気を保っている北川が努めて冷静に振舞う。
混沌としたこの夜は、外が明るくなるまで続いたという……。